『無痛整体源喜堂・悟りとは何か分かりますか?』

こんにちは。

 

大垣駅北口徒歩10分、バロー西隣すぐ、

『腰のプロフェッショナル』

無痛整体源喜堂です。

 

『悟りとは何か分かりますか?』

という内容で書きます。

 

先日、テレビで禅宗のお寺に『一般人の方が修行に入る』様子が放送されていました。

先ず3年間その寺で修行して、その後正式な僧侶になるために6年間の専門の修行を別のお寺でするようです。

 

一般人の人が何らかの問題や悩みを抱えてお寺に修行に来るので、直ぐに辞めてしまう者、1年間で辞めてしまう者、3年間の修行を終える者、その後6年間の専門の修行に入る者とそれぞれです。

お寺は自給自足で行われていて、座禅が修行の主軸になります。

1年間で一番の修行は1日16時間の座禅を3日間するそうです。(一切会話しない)

 

悟りを開くとは『迷いから脱却して真理を悟ること。心の迷いがなくなり、どんなときも変わることのない正しい物事の道理を理解・自分のものにすること』らしいです。

悟りを開いた人は『人に依存しない、人に期待しない』そうです。

悟りを開いた人は『誰でも平等に優しく接し、いつも相手を気遣う姿勢が特徴ですが、そこに見返りはもとめない』ということです。

 

私の中での悟りとは、少し違っています。

私の考えでは、『自分の個人的な悩みを抱えて、それを解決するために修行をしているようでは、永遠に悟りの境地に入れない』と思っています。

つまり、私の考える悟りとは『自分以外の人や物や事に対して、自分ができることで尽くして、それが喜びになること』だと思っています。

 

親が子供の頑張る姿を見て、自分ができることで協力をしてあげる。

決して過剰な援助をすることなく、自分の力で立ち歩けるようにしてあげる。

そうして独立して自分から巣立つ子供に、嬉しさや喜びを感じる。

これ…すべて悟りの境地だと思っています。

 

自分のことばかり考えて『どう生きるべきか』悩んでいる人は、まだまだ修行が足りないのです。

『自分の欲望など超越しないといけない』のです。(無欲無我)

僧侶でも自分の欲望で事件を起こして逮捕されるような愚業をする人がいますが、偽僧侶で全く悟りの境地には達していません。

 

私の家も禅宗ですが、寺に行き座禅を組んで辛い修行に耐えて僧侶になっても、悟りの境地まで達しない者はいくらでもいると思っております。

自分の悩みの解決のためだけに修行に行くようでは、修行のレベルが低すぎるのです。

目の前にある現実から逃げないで『毎日を懸命に正直に自分以外の人のために生きている人』の方が修行を積んでいて悟りの境地に達していると思っています。(先ほどの親の例です)

 

皆さんはどう思いますか?

悟りを開くのは、毎日どこでもいつでもできるのです。

また、何回でも悟りは開けるのです。

特別なことをしないと悟りの境地に行けないと思っている人が間違いです。

 

『一日一善』『小さな親切』『良い言葉を使う』『人を勇気ずけ励ます』これは全て悟りを得た人の生活です

上記が日頃からできている人は、毎日素晴らしい修行ができているのです。

この世でもあの世に行っても『天国行!』です。

 

『悟りとは何か分かりますか?』

という内容でした。

 

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